「宮廷女官チャングムの誓い」は素晴らしいドラマでしたね。すでに観終わった方も現在進行中で観ている方もどうぞご覧ください。 (ただしネタバレも含みますので現在進行中の方はご注意ください)
楽しみにして下さっている方(がもしいましたら・・ですが)、
すみませんでした。
先週末、大久保にある「韓国ドラマ美術館」
チャングム展示場に行って来ました。
不覚にも、デジカメを忘れ写真を撮るにいたらずでしたが、
興味のある方は下記URLにてご確認ください。
http://www.chikai.jp/museum/
去年、韓国へ共に旅した連中と、これまた喜び勇んで行って
きたのですが、まぁ・・期待しすぎるとちょっと残念なほど
狭いところでした。
とはいえ、本物の衣装、小道具などは本当に展示されていて、
中々韓国(チャングムテーマパーク)へは行けないなぁ~って
方には、楽しめるかもしれません。
薬草など、実物が手にとれる形で展示されていたります。
あぁ・・・でも、驚くほど狭いです。「誰かん家」のリビング
ってくらい狭いところに、ただただ展示されている。というだけ。
自分達は、韓国のチャングムテーマパークに行ったことが
あるためか、わりとすぅ~っと素通り。でした。
でも、大久保界隈のコリアンタウンは、ちょっとした韓国旅行
を体感できます。屋台で売ってるホットクも絶品。
もちもちとした食感で中からとろ~り蜂蜜。(他にチーズなどが
ある)ただし、焼きたてはものすごく熱いのでヤケドに注意です。
ちなみにこの界隈では料理もかなり本格的。ランチでも、
かなり本格的な韓国料理が楽しめます。
そして、この界隈にあるカラオケでついに「オナラ」を発見。
歌うわけでもないけれど、思わず入力!
あ、ただし、ハングルのわかる方でないと、好きな曲は探せません。
DAMも入っていて普通の日本の歌なら探せるけど、「オナラ」は
韓国カラオケのほうにしか入っていないんです。
よぉ~くハングルを覚えていかないと、検索することすらできません。
自分達は、問い合わせしちゃいましたよ。
客も韓国の方、店員も韓国の方ではあるけれど、思い切って
「テジャングムのオナラは入っていますか?」と質問!
あ、でも「ハングル読めますか?」の問いに、「いいえ」と答える
とDAM(日本語)と断定されて、「入ってない」と言われるんで、
「わからないけど、ハングルでいいです」と言いましょう。
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ミン・ジョンホやオ・ギョモの家は両班の家という設定でした。
両班とは身分階級の最上位にあり、多くの特権をもった階級のこと。元々は文官(文班)・武官(武班)の二つの班を軸にした制度のことを指していた言葉ということです。それがチャングムの時代の頃には科挙の試験を受ける権利(王朝に仕える資格)を持つ存在となった模様です。その上、特権には兵役免除、懲罰の減免、税金の免除などがあったようです。また、両班の人が通る場合は他の身分の者は道を空ける必要もあったとか。いわゆる貴族階級であり、労働を嫌った。
また、両班は最も儒教を信奉し、徹底した儒教教育がなされ、強い男尊女卑が行われていたということです。
「女は親に従い、夫に従い、老いては息子に従い、ひたすら家のために生きること」
というのが、嫁いだ女の心得として代々伝えられ厳守が義務付けられていたようです。また苗字を名乗ることが出来ない上に、同じ屋根の下に暮らすことも許されず、その家に敷地内にある「内房」(アンバン)という小さな小屋で暮らし、特別な理由が無い限りは外出が禁じられていたということです。
貴族階級とはいえ、女性には非常に厳しい暮らしがそこにはあったようです。現在も韓国では男性の姓を嫁が名乗ることはなく男女別姓なのですが、こうした儒教国家の名残があるようですね。女性だけは一家で別姓となってしまうわけですから、なんか良くないように思います。
現在日本では男尊女卑を無くそうという意味で、夫婦別姓を強く求める女性の方もいらっしゃいますが、男尊女卑の激しい時代は夫婦別姓であったというから複雑な話です。
ま、それとこれとは論点が違いますかね。。
そういうわけで、両班であるミン・ジョンホが強くチャングムを尊敬し、王の主治医となることを推奨したのも、異例中の異例であり、他の官僚が乱心したのか?と猛反発する意味も理解はできます。韓国では近代まで女性が文字を書いて何かを表現することは禁じられていたようですから、当時のミン・ジョンホがチャングムに筆(文字を書く道具)をプレゼントすることも、相当逸脱した出来事だったようです。
しかしミン・ジョンホがチャングムに対して「人が身分を問うのであって書物は人を問いません」と言った一言にミン・ジョンホの人柄が現れており、ミン・ジョンホもまた時代を超越した人物だったようですね。
【1482~1519】
士林派(しりんは/사림파)の官僚。士林派とは李氏朝鮮(朝鮮王朝)の政党の一つで勲旧派(くんきゅうは)と対立関係にあった。ドラマではオ・ギョモは勲旧派であり、士林派のチョ・グァンジョを糾弾し追放している設定。勲旧派は大地主である両班がほとんどであったらしく、要するに金持ち集団。士林派はそうではなかった。趙光祖の提唱する制度は儒教にのっとり身分制度を合理的に管理する優秀な制度であったが、趙光祖の改革路線があまりに過激で混乱を招き、勲旧派によって趙光祖一派は追放・流刑・死刑に追いやられてしまう。趙光祖は38歳だったそうな。
ドラマで、オ・ギョモは趙光祖という名前を良く出します。趙光祖一派に加担するものを謀反人として徹底排除を目論んでいた。また気に食わない人間を趙光祖一派と強引に結びつけて追い出そうとした。王もそれに流されてしまう時期が続く。アヒル事件でも、チェ・パンスルの差し向けた刺客を撃退し、チャングムとハン尚宮を助けた武官が、趙光祖の元弟子であった点を突かれて、オ・ギョモらに非常に有利になってしまった。
別のところでも書きましたけど、この趙光祖は韓国では超有名人であるらしく、16世紀の時代劇で説明不要の人物であるようです。日本人の私たちには、「だから・・誰なの?」ですがね。
【14??~1520】
淑媛李氏(スグォン イシ)は実在する側室で{14??~1520}とあります。年表と照らし合わせいただければわかりますが、チャングムとハン尚宮がアヒル事件にて追放された年には死去していることになります。ドラマでも女子を出産し母子共に危険な状態になりますが、実際も女子を出産しており、この年に死去しています。ドラマではチャングムが救ってしまいますが・・。
ドラマと史実の整合性は?
(ドラマはフィクションなのでヤボなことですが一応・・)
ドラマでは、ヨンセンが特別尚宮になったのはチャングムが追放された後となっていて、またヨンセンが懐妊し淑媛となるのはチャングムが医女として宮中に戻ってきた後になります。
しかし、チャングムがアヒル事件で追放になるのはチョ・グァンジョ(趙光祖)一派が一掃された事件<己卯士禍(キミョサファ)>1519年の後であることがドラマでも語れています。
オ・ギョモがアヒル事件取調べの最中に「失脚した趙光祖をまた担ぎ出すためにお前が企てたことか?」と内禁衛の兵士に尋問します。ということはこの時はすでにチョ・グァンジョ(趙光祖)が王政に参画していない(追放後)ことになりますので、アヒル事件自体が<己卯士禍(キミョサファ)>1519年以降と考えられます。
というわけで、史実では1520年にヨンセンは死去しているので、チャングムが追放されてから医女となって戻ってきて二人が会うことは実質的に難しいのではと考えいます。
整理すると、チャングムがアヒル事件で追放になってから、チャンドクに出会い、医学を学び、医女修練期間を終え、医女となるまでを1年以内で済ませていたとするならば、ギリギリヨンセンの出産に立ち会えます。あ、でもヨンセンが特別尚宮になったのもチャングムが追放されたあとだから、無理か・・。
ということで、このヨンセンも実在の人物を年齢設定をそのままに描いていますが、チャングムの友達であったこと、本来は20代で亡くなっているのをチャングムが救っていること、などのフィクションが加えられているわけです。このあたりも絶妙なフィクションだと私は思います。
「実在するヨンセン」などの当時の宮中の女達として紹介しているのが、下記の書籍です。非常に面白く書かれています。また出演者のインタビューなども写真付きでかなり充実しています。
韓国時代劇が面白い!―巻頭大特集宮廷女官チャングムの誓い
(また、例によっていくつかの項目は推定が混じります。途中にある錦鶏事件、アヒル事件、医女試験などは推定です)